昭和41年03月23日 朝の御理解



 私にとって朝の御祈念、これだけは大げさな表現ですけど命懸けです。朝の御祈念だけはいうなら一生懸命です。今朝も、昨夜、今日の霊様のお祭りにあたってから、昨夜遅くまで御神前に出ておりましたから、一時間あまりしか休んでいません。今朝の御祈念はどんなにして、御祈念を仕えたかもう分かりませんでした。ただもう一生懸命、今朝の御祈念は御神前で、眠らないと言う事に一生懸命でした。
 でこの信心させて頂く者は、その事にもこの事にも、例えば命懸けとか一生懸命とかという事は、なかなか出来ませんけども、この事だけは、一生懸命というものがなかなければいけないと思いますね。何故かというと、そうした一つのこれだけはと、言った様な一生懸命とのものがございませんとですね、私共のいくてというか、日々の生活の中にどのような事が起きてきてもです、それを御都合として受けられないのです。ね、此処のところを一つ皆さんおかげ頂かねばなりません。
 一生懸命その事で、ですからおかげと言う事は別としましてから、お徳の受けられない筈はありません。だからこの事だけはと自分の心に思わせて頂く事が、例えば朝の御祈念なら御祈念に、お参りさせて貰うと言う事に、いうなら命懸けで、いわばそれは本気でそれを行じると言う事です。これはもうどんな事があっても夕べ休んでおらんから、五時の御祈念でも、もう五時半になったっちゃよかよかと、言った様なものではなくて、これはもう一分だって一秒だってずらしちゃあならんと言う事に対して一生懸命。
 昨日、朝の御祈念が終わって皆さんが帰られたという頃、同時ぐらいに伊万里の竹内先生達が親子三人ずれでお礼に出てみえました。息子さんの東大、東京の東大を受けておられましたのが受からなかった。それのお礼のお届けでした。本当に日頃の信心があぁいう時にものをいうんだと思うですけど、本当に行き届いた事だと思います。もうそれこそ一生懸命で、その後でご両親竹内先生と奥さんが話しておられましたけれども、もう本当に私達の方が励まされまし。弟さんの今高校に行っておりますね。
 本当にあの僕達は僕達なりに、神様に一生懸命にお縋りさせて頂いてから、この結果であったのだから兄さんだって、本望だったろうと弟さんの言い分ですね。ですから思い残す事はないだろう、試験が出来る出来ないは別として、もし出来なかったら、東京から帰って暫く椛目に修業に行くというて居った位兄さんだから、その時には又よろしくお願い致しますと、ご両親からお届けがありましたが。例えばあのうちょうど東京に行く何日前に熊本から歩いて、親子四人連れで参ってみえられとき。
 あれがもしあの、一生懸命の例えば、あの時にお参りしてなかったら。ひょっとしたらお参りしたいと思とったけど、お参り出来なかった歩いて、ひとつ試験前のお参りさせて頂こうと思うておったけど、お参り出来なかった。お参り出来なかったから、おかげ頂かれなかったと、言った様に、悔いを残す様な事になっていたろうけど、僕達としては、一生懸命の信心が出来とったのだから、神様の御都合と分かるではないかと、その弟さんの方が言うた。
 もう先生、もう子供に教えられましてから、元気が出ましたとお母さんが言うておられました。そういう意味合いでの、いかに一生懸命と言う事がその全ての事にとはなかなかいえません。一生懸命に、そこに信心のどこにか、これだけは命懸けといった一生懸命のものがです、確かに、そのそういうておられる様にですね、あの時に一生懸命になっていたらおかげうけておったかも知れん、という悔いを残さんですむ。
 結果がどうであろうとも、それが神様の御都合であったとして頂ける、そこに私はいよいよおかげを受けられるお徳の受けられる道があると、こう思うのです。自分の信心をおろそかにしておって、例えば神様の御都合、こりゃあもうあまりにも信心、自分の信心は棚に上げといて神様の御都合でしょう、そんな御都合主義の信心ではお徳はけ受けられませんですね。
 どうぞひとつ一生懸命の信心が、どこの形にかどこにかです、それが形に現わされていく。それは私は、全ての事にと言う事は参りません、それに致しましても御結界の午前中の奉仕と朝の御祈念だけは、私は本当に大げさな話ですけど異様な表現ですけど一生懸命です。例えば今日のごと、何が何んだかいっちょん分からんじゃった。御祈念は何をし、どういう御祈念をしたか、神様はそんな事おっしゃる神様ではない。
 一生懸命だけを受けて下さる神様です、だから、今朝の御祈念は眠らない事だけを一生懸命でした。どうぞひとつおかげを頂きましてですね、お徳を受けていかねばならん。中途半端でお徳を受ける筈がありません。どこでもと言う訳にはいきません。だからこれだけは、これだけはというものが皆さん、何か自分の心の中にそれを掛けさせて頂いて、一生懸命の祈り、一生懸命の修業がなされていく、初めて何時どのような場合でも、これは神様の御都合に違いないという確信がもてるのですね。
   どうぞ。